2008/01
開明派の幕臣 小栗忠順君川 治



ヴェルニー公園の北側にヴェルニー記念館がある。ここに2000年まで使用されていたスチームハンマーが展示してある。国内に現存する最古のもので、しかも130年以上にわたって最近まで使用されていた現物を見て驚きであった。胸像はヴェルニーと小栗忠順。

  
 進歩派の各藩が海外に眼を開いて藩士の育成をしている中で、幕府の人材教育は昌平坂学問所と漢方医学所が中心の旧態依然たる状況が続いていた。この幕府の代官・旗本・御家人等の中で海外に眼を開いていた人物として江川坦庵と長崎海軍伝習所で教育を受けた若手官僚たち、榎本武揚、小野友五郎、肥田浜五郎などがいた。
 もう一人注目すべき人物はここに登場願う小栗上野介忠順である。彼の祖先は徳川家康直参の三河武士で、武芸誉れ高い家柄の出身であるが、特別の洋学教育を受けてはいない。しかしその思考方法は従来の慣習に囚われない合理的・論理的であり、尊王攘夷を称える水戸徳川や諸藩に対して、海軍力の劣る幕府が攘夷など出来る訳が無いとの開国論者である。直言居士として幕府外国奉行や勘定奉行を何度も務めている(何回も罷免されている)。
 JR横須賀駅は明治22年開業の駅舎で昭和15年に改築された風格のある駅である。駅を出ると直ぐ横須賀港で、港に面してヴェルニー公園のフランス式花壇が広がり、その中ほどに造船技師ヴェルニーの胸像と並んで小栗忠順の胸像がある。小栗が計画した横浜製鉄所(造船所)は1865年から建設を始めたが、幕府の時代には竣工せず、1871年(明治4年)に完成した。その後は海軍横須賀工廠となり、現在は在日米軍修理ドッグとして現役である。ヴェルニー公園の対岸にこのドッグを見ることが出来るが、残念ながら米軍基地の中にあるので見学が出来ない。
 小栗忠順が日米修好通商条約批准のため米国軍艦ポーハタン号で渡米したのが33才の時で、正使新見正興、副使村垣範正に対して彼の役柄は監察であるが、実務経験の豊富な小栗が中心人物として業務を取り仕切っている。ドルと両の通貨交換レート改定の強談判をするが受け入れられず、外交交渉の難しさを経験するが、同時にアメリカの政治形態、海軍・陸軍の軍備や造船技術、鉄道技術などの多くのことを学んで帰国する。
 更に小栗の海外認識は、ロシアは蝦夷や対馬の領土を狙う危険な国、対抗勢力として米国が良いが南北戦争に突入して我が国を支援できる状況に無い。オランダは英国やフランスと比較して先進性に乏しくなっている。英国は薩長に急接近して国体を危うくする存在で、残るフランスに支援を仰ぐ決断をする。
 陸軍の組織化や語学教育機関の設立をするが、小栗の一番の目的は海軍力の強化で、その為には造船所の設立を急がねばならなかった。フランスから海軍造船技術者ヴェルニーを招聘し、4年計画で240万ドル投資して横須賀に修理ドッグと造船所の建設を始めた。この計画に対し日本で最初に太平洋を渡った咸臨丸の艦長勝海舟は軍艦購入論者で反対した。長崎海軍伝習所に一期生にも拘らず勝海舟は保守的で自国技術を育成しようとする自覚に乏しく、事毎に小栗と対立する。しかし、海外の造船技術を導入して技術者を教育し艦船建造を企画した小栗忠順の正しさは戦後の造船世界一につながっていると思われる。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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